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pixiv ショートノベルコンテスト結果発表

『生命の泉』

 『あの人が私を愛してから、自分が自分にとってどれほど価値あるものになったことだろう』







   柔らかな風が通りすぎて、カサカサと乾いた葉擦れの音が鳴る。
 すると、大きな手のように枝に群がる枯葉が、木陰で読書にふけるレイの足元に舞い落ちた。何度か風が吹くと、その度に黄色の葉が目の前を通りすぎて地面に落ちる。それでも木陰が失われることはなかった。
 冬でなく、春を待ってやっと落葉するのはこの木の特徴だ──枝葉を見上げて思う。入れ代わるように新葉が繁っている。その隙間から陽光がさし込んだので、思わず目を細めた。
 「なんの本、だったかなあ」見上げたまま、ぼんやりと呟いた。
 図書室で借りて、以前に読んだことは覚えていた。小説の一節を不意に思い出しだのだ。しかし、もう少しのところで記憶に霞がかかってしまう。内容が曖昧のまま記憶に残っているだけで、題名と作者がどうにも思い出せなかった。
 風が再び吹いて、手元にある本のページが無造作にめくれてしまった。
 しおりなど挟んでいないから、しまったと思ってめくれるページを慌てて抑えた。やはり、風で枯葉が舞い落ちる。
 その大木は『グレイス=フィールドハウス』の庭の、少々小高い場所に生えていた。孤児院であるハウスとその庭は、馬蹄形にぐるりと黒い森が取り囲んでいる。蹄鉄のように閉じていない森の両端の先には、大きな門があった。門は、孤児たちが養子として引き取られるため外へ出る以外は、普段は固く閉じられていた。
 森が一年を通して薄暗く、黒々として見えるのには理由がある。常緑針葉樹がそのほとんどなのだ。だから、葉が落ちずに年中鬱蒼としている。黒い森の風景は、まるでハウスと庭を世間から隔離するかのようだった。
 しかし、レイが腰を落ち着けて座る大木は違った。広葉樹であり落葉樹でもあった。
 ある地域では「オーク」と呼ぶし、またある地域では「ナラの木」とも呼ばれていた。
 植物図鑑で幼い頃調べたのだが、どうやら「コナラ」という落葉広葉樹で、だから、春にはくすんだ黄色の花を無数に垂れ掛けて咲かせ、夏には新緑の若葉がぐんぐんと大きくなって緑を濃くして、秋には卵型にベレー帽をかぶったような小さな木の実「ドングリ」をあちこちに落下させる。そして、最後の季節、冬には紅葉の枯葉となって、その姿のまま春の来るのを再び待つのだった。
 頑丈な太い幹と、生い茂って大きな体を広げたように見える枝葉が、レイの読書をいつでも木陰を作って見守っている。
 何年も、まだ文字も上手く読めない小さな子どもの頃から、そうして木の下でページをめくって過ごした。春夏秋冬、お気に入りの場所だった。
 同じ場所に座ってばかりいたので、何年も擦られて、もたれかかる所だけ灰色の樹皮がめくれてしまっていた。木だから、樹皮という名の洋服を少々破いてしまっても、当然文句など言われない。どんな本を読んでいたって、ハウスの好奇心旺盛な子どものように「何読んでるの、見せて見せて!」なんてうるさく詮索もしてこない。ただ何にも言わずに、レイと本の日焼けを防いでいてくれる。そのことに何故だか愛着が沸いてしまって、チクチクするのも構わずついつい大木にもたれ掛かってしまうのだった。
 レイは再び思い出そうとして、手元の本に目を落としたまま、一点を見つめて思考した。そのうちに自然と目をつむって考え込んでしまった。
 思わず空想してしまう。
 頭上の天高くから、白くて細長い糸が無数に垂れ下がっている。
 目当ての本の表紙を見つけたくて、その無数の糸を手当たり次第引っ張って手繰り寄せた。
 すると、次々に糸の先に繋がれた本がばたりばたりと落下してきた。
 俯いて、落ちている本の中から目当ての一冊を探し求めた。
 見つからないので、「これかな」と思う糸を再び引っ張る。
 すると、その糸は何かに引っ掛かっているようで、なかなか本が落ちて来ない。
 思い切り引っ張ってみるが、どうしても引っ掛かってしまっていて、本の角っこだけが空から顔を覗かせている。
 ──あともう少しで落ちてくる。そしたら、こんなもやもやした気持ちとはおさらばできて、やっとすっきりするのに。
 そう思ってまたひと踏ん張り糸を引こうとした時だった。
 レイの鼻に、甘ったるい、小麦粉の焦げて焼けるような匂いが薫った。その拍子におかしな空想は中断されてしまって、我に返ってハウスに目を向けた。
 庭で駆けまわる子どもたちにも匂いは届いたようだ。「クッキーの匂いだ!もうすぐ三時だ」ティータイムに出されるお菓子の匂いだとすぐに気付くと、口々に騒いで足を止めて笑っていた。「焼途中だもの。もう少しかかるよ。まだ遊べるよ」誰かが促すと、そうかと顔を見合わせて再び遊びに戻って行った。
 風が吹く度に空へと旅立つタンポポの綿毛を、そうして子どもたちは追いかけ始める。転びながら追いかける子どももいた。何度も転んでは、それでも嬉々として起き上って追いかける。
 暖かな日差しが降り注ぐ庭を、何とはなしに眺めた。
 花が雑草に混ざって、あちこちで咲いている。
 薄青いわすれな草。透かしの入ったような花弁のクロッカス。小さな花が群れて咲くオオイヌフグリ。庭の一部の菜の花畑。金色の花を咲かせたレンギョウの木も鮮やかだった。ハウスの小さな花壇には、真っ赤なアネモネに黄色のチューリップ、それに紫のパンジーとピンクのガーベラがそれぞれ規則正しく並んで咲いていて、年長組の子どもがジョウロから水をやっている。その横では、秋にはたくさんの実をつける木々が、今は小さな白い花を風に揺らしていた。
 その花々に誘われるように、風に乗って昆虫も飛び交う。モンキチョウ、ベニシジミといった蝶は、羽を広げて優雅に庭を泳ぎ、セイヨウミツバチは、巣にいるたくさんの幼虫のため蜜集めに精を出している。他にも、名まえを思い出せない小虫たちが飛び回って羽を震わせていた。ふと気付くと、白いワイシャツに、まるでブローチのようにナナホシテントウが止まっていた。手で優しく振り落とすと、一回り頭上を飛んでゆっくりと雑草のなかへ帰って行った。
 気候に恵まれた、早春の午後だ。
 大きなあくびが出てしまう。少し眠かった。
 (寝不足だな。この本のせいだ)
思うと、昨夜ママからこっそりと渡された古い書物に視線を落とした。その拍子に、顔に髪がかかって視界を阻んだ。顔半分まで伸びきって、片眼を隠してしまっている黒髪を掻きあげる。色白の顔の目元には、寝不足の象徴であるクマがうっすらできてしまっていて、いつもは鋭い目元が緩んでいた。目がしばしばした。
 昨夜、この書物を夢中で読んでしまって眠りにつくのが遅くなってしまったせいだった。
 穏やかな気候を味方につけて、眠気が次第にレイを緩やかに包み込もうとする。読書の途中で気が散ってしまい、他の本の一節が思い浮かんだのもそのせいだと思った。  寝不足になりながらも読み終わらなくて、しかし、今日のティータイムまでには読み終わらせたかった。だから読んでいたのだ。書物の続きがどうしても気になって、ぼんやりする思考と戦いながらページをめくった。

   『レーベンスボルン』

   書物のタイトルを再び確認して、ページをめくって読み進めた。
 それは、『生命の泉』という意味らしい。1900年代の話だから、相当昔の内容だ。書物自体も所々黄ばんでいたり、破れてしまっていて読みずらかった。古書独特のほこり臭い匂いがする。
 その時代、ある国で政権をふるっていた政治家の話だった。
 『レーベンスボルン』とは、孤児院のことだった。この『グレイス=フィールドハウス』と同じ、両親不在の子どもたちを養育する機関だ。
 読み進めていくと、二つの施設は良く似ていた。
 周囲には森のように草木が鬱蒼と生い茂り、その中を抜けるように進むと、静かで穏やかな、一年中草花の色が絶えない庭が広がる。
 その庭の中央、古城のような、おとぎ話にでてくるような大きな家が建っていた。
 そこで、たくさんの優秀な子どもたちが優しいママに養育されていた。
 清潔なシーツで眠りにつくことのできるベッド。
 いつもきちんとアイロンのかけられた、真っ白な純白の衣服。
 潤沢な食べ物で、毎日お腹も満たされた。
 書物の写真に写る人々も、そこでは未来には何も不安などないかのように幸せそうだった。
 けれど、『レーベンスボルン』は隠された、極秘機関の施設だった。
 その書物には、周囲には「チョコレートなどの菓子工場」としてふれまわっていたと記載がある。
 定期的に子どもたちは里子に出された。
 そして、それを補充するように定期的に赤ん坊が生まれて送り込まれた。
 その孤児院は、血統も能力も優秀な男性と女性の間に生まれた子供を、単一の政治的思想で純粋培養する施設だった。そして、その優秀な子どもを養育し、意のままに操ることができるように教育する。
 戦争の勝利の暁には、世界各国の独裁者として祭り上げるという、そういう思想の元作りあげた施設だった。
 思考や思想の自由とは程遠い、偽物の楽園。
(脳みそ、喰われるのも一緒だな。これじゃあ)
読み進めるレイはそう思うと、そこで大きな溜め息をついた。そして、そっと本を閉じる。
(いつもと同じだ。たいした収穫なんてないのかもしれない)
 こんな読書を続けて、一体何になるというのか。
 「生き残るための読書」──今もまさに、生きるか死ぬかのヒントを探っていた。楽しむなどとは程多い読書。寝不足でも目を休める暇なんてない。
 急に太陽が雲に隠れて、日差しが緩んだ。空模様を心配して、女の子たちが洗濯物をいそいそと取り込み始めた。
 先程まで駆けまわっていた幼い子供たちも、綿毛の追いかけっこに飽きてしまって、今度は花摘みに興じている。
 (俺以外は、誰も知らない)
思いながら、閉じた本の表紙に描かれた古城のような孤児院の絵を眺めた。
 「なんにも、知らない」今度は、声にして呟いた。
 『グレイス=フィールドハウス』がほんとうは何のための施設なのか、レイ以外は気付いていない。
(食人鬼に喰われるための、優秀な脳味噌を育てる施設って知ったらどうなるかね)
殺されて喰われるために、生かされて大切に育てられている。そのどす黒い真実を腹の奥底に、ただ一人で溜め込んでいる。誰に言うつもりも、いますぐ逃げるような行動をするつもりもなかった。
 そういえば、それを溜め込んで、冬には十一歳になろうとしていた。
 この書物は、孤児院のただ一人の養育者──ママと呼び親しまれてはいるが、実際は秘密の加担者である──イザベラから受け取った書物だった。
 真実を知ってしまったレイは、殺されないためイザベラとある取引をしている。
 イザベラの手先として、家畜である子どもたちを裏で統制する装置になりすますことだった。
 「羊飼いにおける、牧羊犬」
自分のことをそんなふうに蔑んでいる。
 そして、仕事をする代わりに即出荷──殺さないこと。
 結果をだしたら、報酬をくれること。
 この条件を飲んでもらい、イザベラとの関係は続いている。十歳の現在もまだ殺されてはいなかった。
 そして、その結果を出した報酬として、今回はこの書物を受け取った。
 前から気になっていたタイトルだった。『グレイス=フィールドハウス』にある図書室は世界各国様々な書物で溢れかえっていて、「本の虫」と周囲から謳われているレイは、そのほとんどを読み尽くしていた。
 それで余計に気になっていたのだ。読んだ本の索引にも目を通していたから、そこに何度か見つけたタイトルだった。
 しかし、図書室のどこを探してもそのタイトルの本は見つからなかった。
 これは、なにか直感めいたものだった。
 (読まれたくないから、この本はここにはないんだ)
そう思って、イザベラにこの本を取り寄せてもらう願を出したのだ。
 却下されるかと思ったが、案外あっさりと手渡された。
 「でも、他の子に読ませたら……殺すわよ」そう付け加えられて渡された。
 読んでみた今、イザベラの言葉に妙に納得してしまった。この書物に登場する孤児院が『グレイス=フィールドハウス』にそっくりなので、そのことで他の子供たちに勘ぐられたくなかったのだろうと。
(でも、真実を知る俺になら、読ませても害がないって判断か)
思い至って一人で苦笑いする。つまりはこの本を読んだところで、ここから抜け出す糸口なんてないとイザベラは踏んでいるのだ。
 読むなら、どうぞ絶望を味わって読んでね。そういうことかと思い至る。
 本を掴む手に、少しばかり力が入ってしまう。
 一体何になるのかと、先程自分に問いかけた言葉を思い返した。
 読書の終わりは毎回同じだった。「無駄骨」なのだ。
 何とかして──出荷期限の最長十二年を過ぎても──未来へ生き残る方法を見つけたい。そのために、むさぼるように読んだ。どんな本にも目を通した。
 けれども見つからなくて、見放された気持ちに幾度も陥る。
 苦しまぎれに読み漁っては、「無駄なことだよ」とでも言うように本に突き放される。
 しかし、読むのをやめられなかった。救いを求めるように読み続けてしまう。
 そうしていれば、いつかは辿り着くかもしれない。希望を捨てたら、途端に負けてしまう気がしたのだ。何度見つからなくても、落ち込んでいる暇はない。十二歳という期限に向けて、とにかく足掻くしかない。
 ──読むのをやめなければ。
 脳内の空にある、どこまでも天高く続いている無数の白く細長い糸。その一本だけでもいい。ヒントを含んだ書物に繋がる糸を探している。引っ張って、途端に脳天を目がけて落ちてくる一冊が必ずあるはずだ。何ものかを、そこから得られるかもしれない。
 黒い森にだって、弱々しくても光はさすのだ。それならば、闇の中をもがくように読書している自分にだって、言葉によって光明がさしたっていいのではないか。
(俺が、みんなが、一体どんな悪いことをしたっていうんだ。こんな仕打ちは、もう、たくさんだ)
 どっと疲れを感じた。
 寝不足のピークがきて、不覚にも瞳を閉じた。
 すると、ゆるゆると生ぬるい液体のような、その中で光る星のような粒粒とした気泡の光景がまぶたの裏に現れた。体や手足をこれでもかとまるめて、その小さな宇宙のような体液の中で心地良く眠る感覚。
 遠く遠く感じる。しかし、それはほんの十年前の記憶。
 恐らくは、母親のお腹の中、胎児の頃の記憶だった。
 寝不足のせいで、また余計なことを思い出してしまう。この記憶が思い出されるのは、きまって落ち込んだ時だ。嫌な心持になって、目を閉じたまま眉をひそめた。  普通の子供は忘れてしまうような、母親のお腹の中での記憶。『幼児健忘』がなかった稀な子どもだったので、思い出すことができる。だから知ってしまっていた。  自分を身ごもり、そして産んだママ──レイの、ほんとうの母親である──イザベラの体内に宿っていた時に知り得た真実。誰も知らない秘密。
 ──ハウスから一歩でも外へ出れば、そこは食人鬼の巣食う世界。養殖の子どもたちは、鬼のための高級食材。
(ママと俺の、生きる意味ってなんだろう)
その途方もなく遠く思える過去の記憶に身をゆだねて、ママを思う。まぶたを閉じたまま後ろにある大木に身体を預けた。
 樹皮がめくれてチクチクしていても、睡魔に抗えない。ゆるやかに全身を覆い始めた。
 夢と現をうとうとまどろみ始めたレイに、歌が聞こえる。
 それは、お腹の中の自分をまるであやすかのように、ママが口ずさむ歌。優しい声色で、まるで身ごもったことが幸せであるかのように。
 お腹の中で、その声色を少しも疑うことなく、胎児は無邪気に愛情を信じていた。
 その歌を聞いていると母体の中、小さな宇宙で泡のような星々はきらめいていた。
 「レスリー」とう名まえをママが小さく呟く度に、ママの心臓の鼓動が揺らめいて、さい帯で繋がる胎児の自分にも、その揺らぎが呼応した。
 それで手足をうねうねと動かすと、ママはお腹の上からその胎動を優しくさすってくれたのだ。
 その揺らぎが何なのか、胎児には理解できない。けれど、今ならなんとなくわかる。ママのあの鼓動は、恋する動悸だったのだ。
 『レーベンスボルン』の一節を思い出す。
 ──チョコレートなどの菓子工場──それを思い出すと、まどろみの中、不思議な色の羊水に浮かぶ赤ん坊が夢に現れた。
 お腹の中は、ねっとりとした褐色の液体チョコレートが満ちている。その中を、胎児の赤ん坊が幸せそうに浮かんでいる。ほんとうの恋心で口ずさむ母の美しい歌声に安心して、普通に愛されているのだと少しも疑わない。
 その羊水が、実は偽物の砂糖と、ほんとうは苦々しい現実のカカオを混ぜてできているチョコレートだとも気付かずに。母体という名の甘ったるいチョコレート菓子の工場ですくすくと育って、赤ん坊は、産まれ出て愛しい母親と会える日を夢見ている。
 けれど、夢の結末はこうだ。赤ん坊はそのうちに羊水を泳ぎ始める。加工されてできた偽のチョコレートを、お腹の中で見つけてひたすらむさぼり喰らう。お腹の外から聞こえる不穏な会話も音も、チョコレートの甘さで曖昧になっている。嘘なのかほんとうなのか、もう良く分からなくって、それでも、バリバリと食べ尽くして大きくなる。優しい歌声を疑いもせず信用して、歳月が満ちると、ついに現実に産み落とされた。
 母親には、会えない。
 腹の中と世界の矛盾に驚愕するのだ。ほんものの、あの歌声のような愛情なんて与えられない。
 現実は、家畜のようにまるまる太らせて、「と殺」される運命なのだ。チョコレートはそのために与えられた。
 母親は、殺すために赤子を産んだのだった。
 ──それは、俺だ。
 優秀なママと、優秀な顔も知らない遺伝子だけのパパ。人工的に掛け合わせて作られた。
──きっとレスリーは、この歌を作った。パパなのかはわからない。けれど、ママの大好きだった人の名まえなんだ。
 そこまで夢に浸食されて、息苦しくなってとうとう目覚めた。夢の中、褐色の羊水で溺れてしまいそうだった。
 深いようで浅かったまどろみからレイは解放される。泥の中で眠っていたかのように身体も頭も重い。中途半端な居眠りのせいで、まぶたもうまく開けられない。最悪の気分だ。
 重い気持ちを払拭したかった。覚醒途中の意識のなか、強引に大木から身体を離して、立ち上がろうとした時だった。
 突如として鐘の音が鼓膜を震わせた。
 まだぼんやりとする視界に、見慣れた二人が飛び込んできた。
 二人は午後三時を告げる手持ち鐘をリズミカルに鳴らしながらハウスから飛び出し、遠くからレイの座る木陰目がけて駆けて来る。
 ショートヘアで赤毛の、威勢のいい大きな笑顔で破顔したエマ。
 栗毛で青い目をした、エマに手を引かれて少し耳を赤らめているノーマン。
 手を繋いだ二人が、息を弾ませて周囲にティータイムの時間を告げていた。
 日の傾きで、木陰は半分ほど太陽に浸食されていた。大木の生い茂る枝葉に守られていたレイの、その姿を照らす。
 眩しくて目を細めた。
 すると、エマとノーマン二人の姿が、違う人物たちの影と重なる。
 見覚えなんてなかった。けれど、それが誰の影なのかすぐに分かった。
 (ああ。ママと、レスリーだ)
 長い黒髪をみつあみで束ねた少女と、艶やかな金髪の優しそうな少年。あどけない笑顔を見せている。
 白い衣服や柔らかい髪をなびかせて、手を繋ぎ光の中を幸せそうに駆けていた。
 その光景がスローモーションのように、陽光と共に降り注いだ。
脳細胞が瞳の網膜を騙して映し出す。幻は心の奥底を大きく揺さぶった。その途端、レイの頭上高くから白くて細長い糸がぷつりと切れて、引っ掛かっていた本がぼすんと目の前に落ちてきた。
 ゆっくり目だけ動かして視界に捉える。本の幻が座る足元にあった。引っ張って糸を手繰り寄せても落ちてこなかった──恋文のような一節だけが頭にこびりついて離れず、けれども、それ以外思い出せずにいた小説。表紙が瞳に焼き付いた。ついに、見つけたと直感した。

 ──J.W.ゲーテ『若きウェルテルの悩み』

   婚約者のいる美しい女に、ウェルテルは熱烈な恋をする。しかし、それはついに叶うことはなかった。悲観した男は、最後は、自らの命を絶つのだ。
 最初に読んだときには、見つけられなかったヒント。何故見落としていたのか。過去に読んだ本が、再び自らに降ってきて思考を揺さぶった。もがき苦しんで読み続けた少年に──もし、本の神様というのもがいるのだとしたら──憐れんで落としてくれた啓示のようだった。悲劇の啓示だ。しかし、レイにとっては悲劇でも構わなかった。
 計画を思いついた。
 それを、誰にも知られてはならない。
 大事な家畜が自ら命を壊すとき、ママはきっと必死になって止めるはずだ。十二年という年月の間、手塩にかけて育て上げた「最高級の商品」なのだから。俺には、それだけの価値がある。
 その隙をついて二人を逃がすために、自らの命をささげよう。
 大切な二人。真実を告げられぬまま、それでも、今まで共に切磋琢磨して生きてきた親友なのだ。失いたくない。
 未来を生きる子どもを、二人だけでも救えるかもしれない。
 「ウェルテルのようになっても構わない」
 呟くように吐露した決意は、エマとノーマンの鳴らす鐘の音でかき消された。
 レイは「本の虫」だったので、宗教の書物もいくつか読破していた。だから、東洋のどこかの国の、宗教の説話も知っていた。
 それは輪廻転生という考えの説話だったような気がして、目の前まで近付いて、笑顔で自分を見下ろすエマとノーマンを見つめて考えた。

 優秀な二人が、いつか恋に落ちて──優秀な愛される子供が生まれる。
 こんなにも悩み抜いて思いついた結論なのだから、仏様辺りのご慈悲で、この二人の子どもに生まれ変わるってことはないだろうか。
 ママができなかったことを、外の世界でも、二人なら叶えられるんじゃないだろうか。
 外の世界を生きるのは、俺じゃなくてもいい。そのためなら、十二歳までの残り短い人生をささげたって構わない。
 ついに光明がさしたようで、瞬きをするのも忘れていた。

 「レーイ!なにぼうっとしてるの?」
自分たちをなんとも言えない表情で眺めていたレイに、エマはその気取らない笑顔を振りまいた。そうして、無造作にしゃがんで、それでも無言で自分を見つめるレイの顔を覗き込む。
「早くしないと、みんなにクッキー食べつくされちゃうよ!」
言いながら、エマは賛同を得るようにノーマンの顔を見上げた。
 ノーマンは、惚けているレイに少々心配そうな視線を注いで、静かに話し始める。
「レイ、なんだか寝起きみたいな顔だけれど。大丈夫?寝不足かい?」
ノーマンも、その場でしゃがんでレイを見つめた。
 (エマとノーマンの子どもに生まれ変わりたいなんて言ってのけたら、ノーマン辺りは鼻血くらいだして驚くかな)
何となくそんなことを考えて、顔を真っ赤にして倒れるノーマンの姿を想像した。すると、思い詰めた心が少し軽くなった。
 レイは、その生まれ変わるなどという妄想めいた考えを、「くだらない駄文のようなおとぎ話」と内心評して、ふっと笑うとゆっくり腰をあげた。
「呼びに来てくれたんだろ。行こうぜ」
そう言って、腰についた草の葉っぱや土くれを片手で軽く振り落とすと、そっと本を小脇に抱え直した。気まずい訳ではなかったが、並んで歩むのが気後れした。だから、二人を残して自分だけさっさと歩き始めてしまう。
 取り残されたエマとノーマンは、呆気にとられて思わず顔を見合わせた。しかし、そっけない態度はいつものことなので、まあいいかとお互い笑い合うとレイの後ろをついて歩み始める。
 その時、二人の先を歩むレイの耳に、不意に歌声が聞こえて来た。
 歌詞に驚いて、とっさに振り向いた。
 ノーマンが、エマに向けて柔らかなまなざしで、恥ずかしそうに歌っていた。

   『あのひとが私を愛してから、自分が自分にとってどれほど価値のあるものになったことだろう』

   たどたどしいその歌声は、それでもレイの脳味噌を鋭く貫いた。冷静な瞳が、思わず大きく開かれる。
ウェルテルの恋心。小説の一節──それがノーマンの口で奏でられ、再び光明をみた気がした。
 何も知らぬ二人に気持ちが通じたようで、鳥肌が立った。偶然にしては出来すぎている。しかし、そんなことはあり得ないとすぐに気を取り直した。
 急に立ち止まってしまったレイに二人は気付いて、そしてノーマンは歌うのを止めた。
 一瞬表情をうかがうようにエマの方を見たが、すぐにレイに視線を戻すと恥ずかしそうに言うのだった。
「……この曲、さっきナットがピアノで弾いてくれたんだ。とてもきれいだったから。歌詞を、つけてみたのさ」
「ふふふ。私が歌ってって、今、こっそりノーマンにお願いしちゃった!」
エマが、にっこりとレイを見て答えた。
 自分に笑いかける二人を見て、再び羊水の中で聞いたママの歌声を思い出す。ノーマンが歌った曲は、それと似ても似つかぬものだった。それでも、羊水の中の小さな宇宙を思い起こさせた。
「おいノーマン。それ、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』だろう」
レイにそうばれてしまったノーマンは「さすが本の虫だね」と、やはり耳を赤くして笑うのだった。
「今日のクッキーはね、私とノーマンで作ったんだよ!」
「初めて作ったから。ママに相当手伝ってもらったけどね」
そんなふうに言い合いながら、エマとノーマンはレイの手を取った。
繋いでよいものか戸惑うも、温かな手の感触が心地よくて、結局二人のなすがままにさせた。
「エマが間違って変なもの入れてないか、クッキーのなか探すの楽しみだな」
憎まれ口を叩くレイに、エマは「ちゃんとレシピ通り作ったよ!」と少々憤るもその手を離すことはなかった。
 二人のやり取りを微笑んで見守っていたノーマンが再び歌い始めたので、エマもそれに合わせてゆっくり歌い始める。
 レイはその歌を聴きながら、エマとノーマンの間で、静かにその手の温もりを確かめた。
 俯くと、抱えた本のタイトルを見つめる。
 あの孤児院に『生命の泉』などと名付けた大人を、頭がどうかしていると思った。
 戦場に送りこんで、大人の都合で思想を植え付けた。未来を、子どもたちは選べない。
(俺なら、お前にその名をつけるよ)
本から顔をあげると、真っ直ぐに大木を見つめた。暖かな風に枝葉を揺らして、残り少ない枯葉を舞い落とす。
 春夏秋冬、『生き残るための読書』を支え続けてくれた相棒。春に雄花と雌花が受粉して、思いは成就して花が咲く。夏には仲良く緑の葉をつけ、強い日差しにも負けず爽やかな風に枝葉を躍らせる。秋には可愛い赤ん坊の実が生まれて、地面に落ちて芽を出す準備が始まる。そして、冬についには葉は枯れて、その命尽きたかと思わせては、次の春には、再び美しい花を咲かせるのだ。始まりと終わりを、そうして何年も何年も大木は繰り返して生きる。そのたび生命が湧きだす。
 恋が実った暁には、命とはこういうふうに巡るものかと、子ども心に淡い空想をしていた。レスリーの作った歌も、春夏秋冬愛しい人と生きていたい、その思いの歌詞だったから。
 (俺は、間違っていないだろうか)
やはり、樹木なのだから問いかけてみてもなんの返事すらないだろう。いつものように、一方的な問答で終わると思っていた。
 しかし、その一瞬は違った。
 風に吹かれてカサカサと鳴る葉音が、言葉をつづった。
 「生きて」と言われた気がした。初めて口をきいてくれた気がして、それが何故だか切なくさせた。
 途端に、庭を駆け抜けるように風が強く吹いて、タンポポの綿毛が無数に飛び空高く舞う。庭に咲く花々の花弁も、風にこすられて散って舞いあがる。レイの黒い髪にも、真っ白な衣服にも、長い睫毛にも唇にも、それらが飛び散ってあちこちに付着した。命を削ってまで未来を夢見る少年を、まるで身体を張って引き止めるかのようだった。  母性の付着物だ──ママに、最後にはこうやって抱きしめて欲しいと思った。命の欠片たちを全身に受けて、身震いした。
 思いとどまる様に説得されたのは、きっと気のせいだと自分に言い聞かせる。
 一瞬躊躇した気持ちを押し込めて、目をつむって踵を返した。二人の手を繋ぎ直すと歩み始める。
 ──十二歳の誕生日に、生きて逃げだせるなどとは夢にも思っていない。
 だから、この時のレイは全てを振りきる様に前を向いた。前だけを見て、エマとノーマンを導くように、もう歩みを止めることはなかった。




おわり。

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